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 第11回公演について

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第11回登米市民劇場「夢フェスタ水の里」

−アメリカ及甚物語−
加奈陀に渡った蛍火の夢

原作脚本/三浦康子
脚本・演出/大友久仁恵
題字/千葉捷郎

主催/財団法人 登米文化振興財団
主管/夢フェスタ水の里実行委員会

■公演日程・動員数
平成21年
3月7日(土)
午後6時30分 入場者870人
3月8日(日)
午後2時 入場者913人

■会場
登米祝祭劇場 大ホール


題字/千葉捷郎
 あらすじ
 「俺の心にホタルが宿る」
 ゲンジボタルの里、今の東和町鱒渕に生まれた「おいじん」こと及川甚三郎は、子供の頃から自由奔放で、ほかの子が魚獲りに興じる中、一人で鱒渕川に隠された宝を探すような、独創的な考えを持ち合わせていた。
 その発想は大人になってからも変わらず、結婚した後も、鱒渕川の水力を利用した製糸工場をはじめ、鱒渕川で冬に凍った氷を貯蔵して夏に売り出すという、画期的なアイディアで次々と事業を成功させた。
 明治38年。カナダのフレーザー河に浮かぶ小さな島「佐藤島」を「及川島」。
 そこにはおいじんの家族をはじめ、数十人の日本人が暮らしていた。おいじんは仲間たちとともに、フレーザー河で捨てられる鮭や筋子を塩漬けに加工し、日本で輸出するという一大事業を展開していた。試行錯誤の末に事業が軌道に乗ったことを祝い、島の集会所で仲間たちとともに酒を酌み交わすおいじん。この事業を進める間、先妻うえのを失うという悲運はあったものの、後妻やえのとの間に二人の子供(英治、しま)を授かり、おいじんの胸には新たな夢への希望が満ちあふれていた。
 だが、先妻うえのとの間の子である通衛は、父に不満を持っていた。通衛は幼い頃、母うえのと一緒にカナダに渡航したが、慣れない異国で父たちの世話をし、苦労していた母の姿を見ていた。
 「お母さんが死んだのは、お父さん、あなたのせいだ」
 宴の席で、青年になった通衛は父に食ってかかる。
 しかし、おいじんは動揺せず、新たな夢を語りだす。
 「ここに日本人の夢の理想郷をつくる。そして貧しい土地で苦しむ鱒渕の人たちをこの地に連れてくるのだ」
 当時、カナダでは移民が制限されていた。おいじんはそこで、壮大な密航計画を企てた。
 翌年の明治39年。故郷の82人の「夢」を乗せた帆船水安丸は、帆を膨らませ、石巻の萩浜港から出航した。




 及甚の紹介
及川甚三郎(1855〜1927)
 登米市東和町出身の実業家。
 安政2(1855)年11月26日、旧鱒渕村下台屋敷に小野寺重郎治の3男として生まれた。幼名は良治。
 21歳の時に同じ地域の郷土・及川栄蔵の長女の婿養子となり、養家の祖父の名「甚三郎」に改名した。明治19(1886)年に水車を利用した回転60人操り製糸工場を鱒渕村軽米に設立した。32歳だった。
 しかし、これに満足せず、10年後の明治29(1896)年にカナダへの視察にでかけ、フレーザー河の鮭に目をつけて帰国した。
 更に10年後の明治39(1906)年8月31日。及甚を含めた83人の密航者を乗せた帆船「水安丸」が石巻荻浜港を出た。及甚の夢はカナダに日本人の理想郷をつくること。カナダに渡った及甚らはドン島、ライオン島を開拓し、日本人を集めて活気ある島に変えていった。
 カナダへ渡って10年間、慣れない土地で苦労や失敗を重ねながら着実に事業を拡大させた、明治期の先駆的な起業家。塩鮭を北米大陸から東洋に出荷したのは及甚が初めてだった。
 当時の鱒渕村は赤痢の流行や凶作続きで、人々はアワやヒエ、雑草などを口にして飢えをしのいでいた。
 そこで、及甚は郷里の人々を救おうと、カナダへの密航を企てたのだった。
 カナダでは現在、水安丸で太平洋を渡った人々の2世や3世が多く活躍している。


夢フェスタ水の里テーマソング「風のように」 
(作詞・作曲/清水明 編曲/八田江里子)

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